松井良彦

遥か遠くの監督に向けて送ったEメール

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le 15 septembre 2013

映画監督が「作家」として考えられるまでには、いったい何本の映画を作らなければいけないのだろうか。論理的に考えると、少なくとも二作は作らねばならないであろう。なぜならそれにより批評家は、一連につながる作品の中においての断絶性と一貫性を指摘することができるようになるからである。二作以上の作品があれば、無論それはなお一層素晴らしいことと言えるであろう。

松井良彦(1956年生まれ)は、この三十四年の間に、短編映画(「錆びた缶空」1979年)を一作、そして三本の長編映画(「豚鶏心中」1981年、「追悼のざわめき」1988年、「どこに行くの?」2007年)を監督した。私個人としては、残念ながら、この四本の作品のうち「豚鶏心中」と「追悼のざわめき」の二作品のみを見る機会にしか恵まれていない。

私はいつも映画の質というものを、映画というものが私の中に引き起こす好奇心によって推し量ろうとする。松井作品において私を魅了するものを明確にいうとすれば、それは距離というものが縮んでいくという体験だ。もちろん、私がここでいう距離とはいわゆる「文化的」な意味合いにおいてである。したがって、この後に続くインタビューは、その意味というものを深く探ること、そして「なぜ」「どのように」物事が成り立ったかを見つけ、この寡作な作家の肖像を描画することの試みなのである。それと同時に、比喩的な意味においてになるが、私の言う「距離」とはデリダ言うdis-tanzに強く関連する。つまり、我々が定まった意味というものをつかもうとするもくろみに多いに外れてしまっている間にも、私たちを感動させ、心をふるわせるような何かをもつ、崇高にもフラストレーションを生み出すダンスのことである。

この場を借りて、日本語訳を担当した熱田陽子、そして彼女とフランス語翻訳に携わったアルチュール・ドゥラフランスに、遥か遠くの映画監督と、遥か遠くの観察者との間の距離を縮めようと奔走してくれたことに対して感謝をしたい。

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映画監督として動きのあるイメージを作るということをお仕事にされているわけですが、しかしながら絵画(つまりは静止されたイメージ)というものが主たる芸術的インスピレーションの元であるということを監督がおっしゃっておられたのを拝読しました。私にはこの矛盾(動画- 静止画)が、とても興味深く感じられ、ぜひともこの点において質問させて頂きたく思います。一体、どのような画家達に、どのような点において影響を受けられましたか?

~今まで私は、映画のインスピレーションは、絵画から受けてきました。でも、基本的に私は絵画に限らず想像をさせてくれる作品や出来事であれば、なんでも受け入れます。それがあなたの言う静止画であろうがなかろうが、どちらでも良いのです。つまり私に想像をさせてくれる力のあるものであるなら、すべてOKなのです。

例えば、ここに一枚の人物の絵画があったとします。私がそれを観た時に、その人物がこれから何をするのだろうか?とか、何を考えているのだろうか?とか。そのように私に思わせてくれたなら、私はそれを徹底的に考えます。すると物語とイメージができ、私の頭と心の中で脚本の構想ができあがるのです。そして私は、その脚本をどうすれば魅力的になるかを考えます。それらがすべて確固たるものとなった時に、私は心の底から映画を創りたいと思います。

ですから私の場合、そのように映画を創らせようと思わせてくれるきっかけが、絵画との出会いが多かったということです。ちなみに具体的に言うと、映画「追悼のざわめき」は、フランシス・ベーコンとマルク・シャガール。「豚鶏心中」は、スー・チン。「錆びた缶空」は、寺山修司さんの落書き。「どこに行くの?」は、ポール・ゴーギャンです。

世の映画監督はみんなそれぞれに発想の段階で癖があります。例えば、私の友人の映画監督たちは、音楽からとか、詩からとか、新聞記事からとか。そのようにいろいろな素材から映画創りのインスピレーションを受けています。私の場合は、絵画から発想をすることが多かったということです。

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映画製作以外に、御自分でも絵を描かれたり、他の芸術的な表現方法に携われたり、またはそういったものに御興味をお持ちですか?

~今の私は映画以外の芸術的な創作活動はしていません。

でも以前、私は陶芸をしたことがあります。それはとても新鮮で嬉しい経験でした。というのは映画製作では、私は監督という立場上、イメージをスタッフや俳優に伝えます。それは私にとっては間接的な表現方法なのです。でも、陶芸は自分の手で作品を形作るので、直接的な表現方法なのです。ですから、この陶芸の経験はとても私に新しい経験と視点を味わわせてくれました。

寺山修司の賞賛者だということを拝読しました。松井監督ご自身としては「完全芸術家(total artist)」という概念にどのようなお考えをお持ちですか ?

(「完全芸術家」という言葉に語弊が出るかもしれませんが、私が意味することは、例えば寺山のように、一人の芸術家が写真をとり、映画を製作し、戯曲や詩や小説を書くという様々な芸術活動を行う点においてです。付け加えるならば、それはルネッサンス時代の芸術家達にも見られるスタイルだと思います。例えば画家が同時に彫刻家であり、発明家でもあり、全ての創造的才能が一人の芸術家に集結していたということです。)

~私が芸術表現をするのは、今は映画だけです。でも、将来は分かりません。私が自然に、演劇をしてみたいと思ったらしますし。小説を書きたいと思ったら、そうします。私は自然に思ったことをしたいと思います。ただ、今の私には映画が私の心と頭の中に大きな存在を占めていますので、映画監督をつづけたいと思います。

映画製作という産業においては、「分業」作業が必要不可欠です。つまり芸術家(いうなれば映画監督)は、そういったシステムに順応せざるを得ないわけです。そのような分業制作に組み込まれた状態の芸術家像をどのように思われますか?もっと簡略に申し上げますと、例えば小説を書くのには一人で自分の部屋にこもって仕事をすることができますが、映画製作のためには、例えどんな小さなサイズのチームであろうが、スタッフやら俳優というものがどうしても必要になってきます。

~仰るように、映画は集団作業です。世の中の映画監督の多くは、「分業」という形で映画に関わっています。ただ私の映画創りは発想から完成まで、私がすべてに関わり、チェックをし、最終決定も私が下しますから、完全なる分業ではありません。

そして集団作業だからこそ素晴らしいこともあるのです。つまり自分が気づかなかったことを気づかせてくれる。それはスタッフや俳優とのコラボレーションだからこそ、生まれることなのです

松井監督の映画製作において「書かれた言葉」というものが占める役割とは、どのようなものでしょうか。そして、実際の撮影をするセットという場において、監督は脚本というものをどのように捉えていらっしゃるのでしょうか。個人的に私が魅惑されてやまないことは、言葉というものを、監督が演出時にどのような方法で映像に昇華されているのかということです。

~私にとって、脚本は映画の設計図です。設計図がしっかりとできていなければ、欠陥建築になってしまいます。ですから、脚本は映画の命だと思います。

その私の脚本ですが、まず私は脚本には丁寧すぎるくらいに台詞とト書きを書きこみます。そして、書き上げたあと、私はすぐに台詞とト書きの省略作業に入ります。絵コンテや撮影のための準備をしているときも、私はどんどんそれらを省略していきます。そしてその省略をした台詞とト書きを含めた、そのシーンのイメージを的確にあらわす映像を考えられる限り考え、その映像はシンプルなものとします。その理由は、極力、映画は映像で訴えるものだと、私は思っていますのでそのように努めます。

即興演出というものを、いかがお考えですか?または反対に、演出における全ての事柄が、撮影前にきちんと計画されたものであるべきだとお考えですか?観客として、私の個人的な印象ですが、監督の初期の作品群を拝見して、全てがとても「自然に起きているような」ものに思えました。

~あなたの指摘は素晴らしいです。そのとおりです。

というのは、私は映画にとって「自然」が最も大切なことのひとつだと思っているからです。

私は発想の段階から完成までの間、常に「自然で魅力的な映画にするにはどうしたら良いか」を考えられる限り考えます。そのために脚本を読み返し、絵コンテを練りあげます。でも、撮影現場では思いもよらぬことが、たまに起こります。その時、私は前記したように、常に「自然で魅力的な映画にするにはどうしたら良いか」ということを考えていますから、瞬時にどうするのが最善かの判断が下せます。私はそういうかたちでの撮影をします。

一般的に言われる即興演出は、私には分からないことであり、私にはできないことですし、したくありません。

「映画セット」というものに対して、いかがお考えですか?そして、この「セット」と呼ばれる特別な空間において「境界線」というものがあるとすれば、それは何だと思われますか。

そして映画セットとは、単純に物質的(physique)な空間と言えるでしょうか。または、それをも超えた純然たるイデア論的(ideal)な空間でしょうか。

監督こそが、この空間においての「支配者」であると思われますか。「監督とはコントロールする人間である」という一般的な定義を好意的にとられますか。

~私にとって「映画セット」とは、私が考えた脚本(物語やイメージ)を具現化するための素材のひとつです。ですからどのようなセットを作るか、あるいは探してくるか。それはその脚本がより魅力的になるかどうかを決めるとても大切な素材です。

ご質問の「境界線」というのは、私にとっては映画が完成したときがその境界線だと思っています。映画が完成するまでは、私はどうすれば作品がより魅力的になるかを考えていますので、撮影をやりなおすことになるかもしれません。ですから映画の完成という区切りがその境界線だと思っています。

セットが物質的かイデア論的かは、その作品の内容によって決まると思います。

監督が支配者かどうかは、私にはよく分かりません。ただ言えることは、監督は表現についての最終決定権をもっている人物であるということです。

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松井監督は「錆びた缶空」(1979年)、「豚鶏心中」(1981年)、「追悼のざわめき」(1988年)を、同時録音ではなく、そしてフィルムを使用して撮影されました。残念ながら私はまだ「どこに行くの?」(2007年)を拝見することができずにいるのですが、この映画においては従来のフィルム撮影だったのでしょうか?それともデジタル式撮影だったのしょうか?そして、もしデジタル式撮影を選ばれたのであれば、異なるテクノロジーを使用して作業をされたことに対しての印象をぜひとも伺いたく思います。

~映画「どこに行くの?」は、デジタル撮影と同時録音で撮影をしました。私がそれを選んだのは、製作費の問題からそうせざるをえなかったのです。つまり低予算(1,000万円)でしたので、フィルムを使うことはできなかったのです。

私が思うデジタルの印象は、フィルムよりも画面が硬調でウェット感が足りず、中間色の微妙なトーンが出せないということ。音質も硬調で耳にうるさく、自然さが足りないというものです。これらについては以前から思っていたことなので、脚本を書いている際にそれらを意識して、台詞やト書きを書きました。録音では、「追悼のざわめき」の録音を担当してくれた浦田和治さん(うらた ともはる)が、より自然な音質での録音にしようと作業を進めてくれました。私はとても彼に感謝をしています。

そのような経験をした私が今、思うことは、今もそうかもしれませんが、当時のデジタルとフィルムを比べたら、「フィルムの方が、断然、圧倒的に、良かった」ということです。しかし、フィルムの良さを理解している人は、これからどんどん少なくなっていきますから・・・。まぁ、それは時代の流れですから、しかたないことですね。

デジタル技術の向上により、現代において全ての人間が「独立したアーティスト」として各自の映画を作れることになったと思われますか?8ミリカメラを使い映画を製作していた80年代よりも、デジタル技術によって独立映画を作ることが容易になったとお考えですか?それにより、プロフェッショナルと素人という間に生じる差は格段に縮小したと思われますか?

~基本的にデジタル技術の向上は、素晴らしいことだと思いますし、あなたが指摘をされた「独立したアーティスト」についても、多くの人が映画を創るというのは良いことだと思います。そして、それは私が8ミリ・フィルムで撮影をしていた時よりも、映画を創ることが容易になったとも思います。

ただしそれが、映画の技術の進歩と映画の内容が相乗効果を成して、作品と呼べるだけの価値があるものになっているかどうか、というのが問題なのです。率直なところ、価値のないものが多く見受けられます。ただしそれもやがては自然淘汰されるでしょうから、放っておきましょう。ですから、言うまでもないことですが、映画監督は、まずは良質な作品を創ることを最優先に考え、その際に新しい技術が必要なら、それを使う。そうでないなら使わないということです。つまり技術の進歩は良いことですが、最優先することは良質な作品を考えるということです。

お尋ねの「プロフェッショナルと素人という間に生じる差」についてですが、私には答えにくい質問です。というのは、私自身がプロフェッショナルなのか、素人なのか、よく分からないからです。

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もし私がきちんと理解していればのお話ですが、自主映画を製作していた監督にとって、70年代末から80年代末にかけての大きな問題として、自らプロデュースした作品が映写される場所を見つけることだったのではないかと推測します。その点について、もう少し詳しくお話していただけますでしょうか?

~当時、私は自分の作品を上映する場所については、まったく困ったことはありませんでした。幸いにも私の映画の上映をリクエストしてくれる映画団体や映画館がいくつもあったため、なにひとつ問題はありませんでした。

「豚鶏心中」と「追悼のざわめき」は、大都市の貧民街が背景になっており、社会から阻害された人間らが主要な登場人物です。そして彼らの大半は韓国系の日本人です。いかなる理由において、またどのような形で在日韓国人と呼ばれる人々が、日本社会において差別を受けているかを説明していただけますか?現在において、その状況は変化しましたか?このような貧民街は今も存在しているのでしょうか?

~在日韓国・朝鮮人についての発言をする前に、私は彼らを絶対に差別していないことをここに明言します。

ですから、なぜ日本社会で彼らが差別を受けているのか。私には理解できません。

古くは日本の文化は、中国や朝鮮半島から伝来し、影響を受けてきたのです。これひとつをとっても、日本人は彼らに感謝をするべきなのに、それをないがしろにし、差別をするという愚かな方向に進み、第二次世界大戦では朝鮮半島に侵略をし、数多くの朝鮮人(当時は韓国と北朝鮮に分断されていなかった)を戦争という状況とはいえ殺し、朝鮮半島の国土を奪いました。しかし日本は、その戦争でアメリカを中心とする連合国に敗れ、その結果、日本は今もアメリカには低姿勢で、アメリカの言いなりの国になってしまいました。日本はアメリカにはそのような低姿勢な態度をとるのに、なぜか韓国には今も差別的な言動をとっている。それは日本の現実社会でも、在日韓国・朝鮮人の就職や、日本人との結婚においても差別があります。こんな状況を、私は愚かで情けないことだと思います。

また、日本人の特性として、多くの日本人は多数派に属していたいという願望と、長いものには巻かれろというのがあります。つまり、多くの日本人は他の人と意見や考え方が違うことを、おかしなこと、或いは変なことと思ってしまう気質があります。そして強い者(権力やお金のある人)に対しては、彼らの言いなりになるということを恥ずかしげもなくしてしまうのです。

ですから少数派であり、立場の弱い在日韓国・朝鮮人に、そういう差別的な態度をとる人が今もいるということです。

ご存知だと思いますが、今、日本の或る愚かな政治家は、悲しいことに、在日韓国・朝鮮人に対し差別的な言動をとっています。これは絶対に許せないことですし、政治家としての資格がない人たちだと思います。

ただ庶民の間では、韓流というブームが起こり、韓国の文化や芸術、スポーツなどの交流が盛んになり、少しずつですが庶民の間では、差別意識は薄らいできているように思えます。

ご指摘の「貧民街は今も存在しているのでしょうか?」は、以前ほど多くはありませんが、今も存在しています。

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「豚鶏心中」において、なぜ在日韓国人達をミイラとして表現されたのですか?

~誤解をしないでください。私は、絶対に在日韓国・朝鮮人をミイラとして表現したつもりはありませんし、考えたこともありません。これは大きな間違いです。その上で、私はお答えします。

ここでは、包帯に意味があります。映画の中の在日韓国・朝鮮人は、日本で生きていくために、韓国・朝鮮人である事を隠そうとする。その隠すという意味において、包帯を身体に巻きつけるという意味を私は表現したのです。くれぐれも誤解をしないでください。

ハリウッド映画の神話的見地においては、ミイラというものは、「かなわぬ愛」のために罰された人間として描かれます。そして、それは古代エジプト社会の規則に由来するものです。例えるならば「ミイラ再生」(1932年製作のカール・フロイント監督映画作品)において、ボリス・カーロフ演じる登場人物は「怪物」であり「悪者」であるわけなのですが、しかしながら彼は愛という衝動によって行動します。それは「追悼のざわめき」の多数の登場人物のようにです。アウトサイダー像というものの一体何が、松井監督が強く心を打たれるきっかけを作ったのでしょうか

~もう一度、言います。私は絶対に在日韓国・朝鮮人をミイラとして表現したつもりはありませんし、考えたこともありません。その上で、この質問にもお答えします。

私は、疎外されている人々や世の中の底辺で生きている人々に関心があります。それは、世の中の問題点の凝縮したものすべてがそこにあると思うからです。また、コンプレックスをもった人々にも関心があります。というのは、この世で今、生きている人みんなが、大なり小なりのコンプレックスをもっている。つまりコンプレックスというのは、人類すべての共通項なのです。

私の映画は、基本的にラブ・ストーリーという形をとっています。それも愛する相手が同性であったり、物体であったり、肉親であったりしていますが。でも私は相手が何であっても、好きになった時点から愛の物語は始まると思っていますので、その物語を描いているのです。それは世間から見ると変態であると思われてしまうかもしれませんが。しかし本人たちは純粋に相手のことを想い、幸せを願い、生きているのです。彼らは、心底、相手を愛しているのです。

ただ映画の結末は、登場人物たちが愛の成就を成し遂げようと努力をしますが、破滅という形で終わってしまうのです。でも、そこで私は言いたいのです。「自分の人生を破滅させるくらいに、相手を愛したのだから素晴らしい」と。さらに言うなら、「世の皆さん。そこまでの想いを抱いて愛する人と生きていますか?」と。

あらすじよりもメランコリックな雰囲気と比喩的表現に焦点を置かれた作風のせいでしょうか、それとも先に挙げた「かなわぬ愛」というテーマのせいでしょうか、私が目にした多くの批評によると、松井監督の映画は「ロマンティック」だと形容されることがよくあります。ここでいう「ロマンティック」とは、(英語等の西洋言語がこの言葉に対して持つ)「叙情的」、「空想的」そして「感情的」という複数の意味においてです。西洋芸術史から借り受けたこの(多義的な意味においての)「ロマンティック」というテーマは、日本文化にはあまり根付いていないと思うのですが、監督にとって「ロマンティック」という言葉は一体どのような意味を持つでしょうか?ご自分の作品群が「ロマンティック」といわれることに対しては肯定的に受け取られますか ?

~私の映画に「ロマンティック」という言葉が使われるのは、私にはとても嬉しいことです。この言葉は、私にとって最高級の褒め言葉だと思うからです。そして、光栄に感じています。

なぜなら私にとって「ロマンティック」という言葉は、夢見心地のような幸福感でもあり、それと同時に残酷な意味でもあるからです。言い換えるならば、世の中の相反することを意味しています。例えば、美と醜、善と悪というようなことです。

ですから私の映画では、相反することやものを、一作品の中で描ききる。そうすることで、それらがぶつかりあって、そこから何か真実らしきもの、或いは本質が現れるのではないだろうか、と私は思っているのです。

「ロマンティック」という言葉をいただけて、幸せです。ありがとうございます。Grazie!

「鶏」と「豚」というものを(少年期から成人年齢にかけての)人間の年齢というものと関連づけ、比喩として使われていると、監督御自身がおっしゃっていましたが、その点についてもう少し詳しく説明して頂けますか?

~これは難しい質問です。つまり私のイメージだからです。イメージを伝えるのは、本当に難しいのです。でも、その上でお答えします。

人を揶揄する時に、よく例えられる動物が「鶏」と「豚」です。そして私には、「鶏」は幼く思え、「豚」はそれよりも年を重ねたように思えるのです。このイメージが伝わることを願っています

ピエル・パオロ・パゾリーニ監督作品の「豚小屋」(1969年製作)において、「豚」というテーマが「成長することを拒んだ少年」および「消費主義」の比喩として使われています。一般的に豚というものは、資本主義批評と関連づけて考えられることが多々あるわけですが、そのような社会的批評に対して御興味はお持ちですが?

~はい。私は興味を持っています。映画「豚小屋」で、パゾリーニ監督は資本主義や消費主義を描く際に「豚」を比喩として見事に表現されたと思います。また、私が知るところでは、彼は共産主義者であり、資本主義への強烈な批判精神があったからこそ、この映画が生まれたのだろうと思います。

ただ、今の時代は、共産主義国や社会主義国はほんのわずかになり、資本主義国が世界の枢軸になりました。それが良いことなのか、そうでないかは、私には判断はつきませんが、世界が平和でないところから察すると、資本主義にも大きな問題点があると思わざるをえません。

資本主義。経済優先主義。「毎年、経済成長をしないといけない」と政治家も経済人も経済学者も皆がそう発言しています。このことは、私には大いなる疑問に思えます。それよりも、皆が自分の領域をわきまえて、人に迷惑をかけずに生き、人が人を敬い、愛していれば、それで十分幸せではないだろうか、とそう私は思うのですが。これは、理想にしか過ぎないのでしょうかねぇ。

政治家と経済人、経済学者らに、インドのマハトマ・ガンジーによる『七つの社会的大罪』のうちの三つをそれぞれに提示したいと思います。それを彼らに知ってもらい、自らを徹底的に律してほしいと思います。まず政治家には、「理念なき政治」。経済人には、「道徳なき商業」。経済学者には、「人格なき知識」。ガンジーは、これらを社会的大罪と仰っています。

監督が受けられた他のインタビューを拝見しながら感じたことなのですが、「豚鶏心中」と「追悼のざわめき」において、社会的および政治的なメッセージを送るというよりも、むしろ人間の感情と結びつきを監督は語られたかったのではないかという印象を受けました。当時、政治というものにあまり御興味を持っていらっしゃらなかったのでしょうか?または監督が映画製作を始められた70年代末に、いわゆる「政治的な失望感」といったものを感じられていたのでしょうか?

~私が「豚鶏心中」と「追悼のざわめき」を創っている時に、作品の中に政治的な問題を入れようとは思いませんでした。ただ、前記したように、日本の社会から疎外された人々や、軽蔑されている人々を描いていますので、インタビュアーの方から、私の政治的背景や宗教的背景などを質問されることがあります。勿論、私はそれら二つの政治的背景や宗教的背景には関心を持っていますが、それは私が私生活でよく考えるというだけのことです。ですから、映画を創るうえでは、それらよりも疎外された人々や、軽蔑されている人々が一生懸命に生きている様子に、私は強く関心があります。

「政治的な失望感」はありません。なぜなら私は政治には、まったく期待をしていないからです。というのは、私が知る限りですが、いろんな国で、ほとんどの時代、ほとんどの政治家たちをはじめとする国のお偉方は、国民を見て、国民のことを考えながら政治をしてきたとは、まったく思えないからです。そのように私は政治をとらえていますので、まったく政治には期待をしていません。これからもきっと政治家たちは、国民のことを忘れて、図々しく生きていくのでしょうね。

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1970年代末に、私は映画製作を始めました。当時、私は学生運動に敗れた人々に会う機会がありましたが、私は彼らに会いたくありませんでした。その理由は、彼らが暴力でアピールをしていたからです。私はどんなことがあっても、暴力で訴えるというのは許されないことだと思っていますので、彼らと会うことを断りつづけました。私は、それで良かったと思います。

今、日本では二年前の福島県の原発事故以来、反原発運動が行われています。勿論、私もそのデモや集会、講演に参加をしています。それは原発というものは、政治を超えた人間や生命あるものすべての敵だと思うからです。そして私たちはデモの際には、暴力的なことは一切せず、ルールを守りアピールをしています。これからもそうありたいと思っています。

「狂映舎」という映画制作集団に携われたわけですが、このグループの設立された目的とは一体なんだったのでしょうか?その中においての取り決め(ルールのようなもの)、そしてその内部の構造は一体どのようなものだったのでしょうか?そして、このグループはいつ解散の時を迎えたのでしょうか?それはどのような理由からなのでしょうか?

~私は「狂映舎」とは、映画監督になりたいと思っている人たちがメインに集まった映画制作集団だと認識しています。ルールというのは、基本的に監督をする人がお金を集め、他のメンバーがスタッフを務めるということです。製作費は本当に少なかったので8ミリフィルムがメインでした。勿論、お金がある時は16ミリフィルムで映画を創りました。

解散をした時期は、メンバーが監督として一本立ちをした頃です。

原一男氏は「豚鶏心中」での撮影監督を務められました。もともと原氏とは「狂映舎」の活動において知り合われたのですか?そして原氏との共同作業について、どのような印象を持たれましたか?

~原一男さんは、「狂映舎」とは関係はありません。原さんと私との出会いは、私とスタッフがキャメラマンを選ぶ時、映画の内容から考えて、原さんが良いのではないかと判断をし、それで彼と知り合いました。その印象は、言うまでもなく、独自の世界を明確に持たれているなぁと感じました。

原一男監督作品のファンでいらっしゃいますか?

~私は原一男監督作品をすべて観ていますし、好きな映画もあります。

「日本ヌーヴェルヴァーグ」と映画作家達との結びつきについて教えてください。例えば松井監督の「追悼のざわめき」と、今村昌平の「エロ事師たちより 人類学入門」(1966年製作)には、人形に狂おしい恋をした男が登場します。そして付け加えるならば、今村・松井両監督に見る共通テーマとしては、近親相姦というものがあります。

~私にとって「日本のヌーヴェルヴァーグ」とは、大島渚監督、彼お一人だけだと認識しています。私はその大島監督と出会うことができ、また、幾度かお会いしていただけたことは、私には、とても貴重な時間と体験でした。それは、宝物と言ってもいいものです。

勿論、言うまでもなく今村昌平監督も素晴らしい表現者だと思いますが、「日本のヌーヴェルヴァーグ」ではないと思います。

その今村監督はご自身の映画の中で、人形への恋や、近親相姦を描いていますが、私が映画を創る際には、今村監督も彼の作品も浮かんできませんでした。

私の友人が監督の日本語ウィキペディアのページを拝見し、監督が「天気予報を見るのが」お好きという情報を発見しました。これは本当ですか?どうして天気予報に、そこまで御興味をお持ちなのですか?

~天気予報は好きですね。例えば、明日の天気が晴れなら、あれをしよう。曇りなら、これをしよう。雨なら、他のことをしようと。つまり天気予報もそうですが、まず私は明日のことを考えるのが好きなのです。さらにそこで天気予報を知ったなら、もっといろんなことが想像できる。ですから、質問1のお答えと同じで、きっと私は想像をすること自体が好きなのです。そして、それは私にとって、とても興味深いことなのです。

その天気予報と同じくらいに、或いはそれ以上に好きなのがサッカーです。日本人がサッカーの歴史と伝統のあるヨーロッパで活躍しているのを知ると、とても嬉しく思ってしまいます。

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カラー写真は「豚鶏心中」よりの出典。モノクロ写真は「追悼のざわめき」より。絵画はシャイム・スーティン作「牛の死体」(1925)より。